大きな声で歌う薩摩琵琶
毎月の正絃会
正絃会(せいげんかい)という、薩摩琵琶の同好の会員が毎月、中央区築地の会館に集まり、三十畳程の広間で、琵琶をかき鳴らし、元気な声を張り上げて、薩摩琵琶の演奏を続けている会があります。毎回、十人程度が出演し、弾き語りで二、三十分、長い曲になると四、五十分つぎつぎに独演し、会の終りには、鹿児島に古くから伝わってきた「門琵琶(かどびわ)」という、器楽曲を出演者全員で合奏して締めくくることにしています。この正絃会は、大正五年に、後に鹿児島県無形文化財にも指定された名人、池田天舟先生と先生の義兄に当たる辻靖剛先生のお二人によって始められた会で、戦争中のしばらくの期間、休会したことはありましたが、戦後間もなく復活し、毎月休みなく続けられてきています。辻靖剛先生は昭和五十六年に亡くなられましたが、正絃会の創立以来、長きにわたって指導者として、会の運営、後進の育成に当たられました。何事も倦まず、怠らず、継続しつづけることが大切とおっしゃっていた、辻先生のお教え守りながら、九十年を超える歴史を積み重ね、会員一同元気よく、薩摩琵琶の演奏、稽古に励んでいるのです。現在、会員の数は、二十名程度で、大学生から八十歳を超えた古老まで、琵琶制作者、サラリーマン、教師、主婦等、さまざまな職業を持った人たちの集まりで、私もいっしょになって、池田先生、辻先生の薩摩琵琶に注いだ心をたどりながら、琵琶をかき鳴らす日々を送っています。
正倉院の楽琵琶
わが国の琵琶の種類、歴史はさまざまですが、古くは正倉院の御物の中に、二つの種類、四弦琵琶と五弦琵琶が伝わっており、今でも「正倉院展」の折などには、実際に見ることもできます。これらの琵琶は、千三百年ほど前、奈良朝の頃に大陸から伝えられたといわれており、いずれも、器楽の独奏楽器であったようです。四弦琵琶は今、宮中楽部による雅楽などで目にすることができますが、平安朝初期には遣唐使の藤原貞敏が中国から伝えた「流泉」「啄木」「楊真藻」等の独奏曲があって、平安朝末まで、蝉丸、博雅三位、藤原師長、平経政等の名人によって伝えられていました。しかし当時、これを秘曲として伝授を惜しんだからなのでしょうか、鎌倉時代以降は全く独奏の伝承は絶えてしまいました。一方、五弦琵琶は、この時代の琵琶としては、世界で唯一、正倉院に伝わる直頸五弦琵琶のみが残っています。全面に美しく装飾された螺鈿細工は、当時の工芸美術の粋を尽くしたものとして、世界の驚異とされています。近衛家旧蔵の「五絃琴譜」は、その当時使用された五弦琵琶の楽譜であることが判明しており、独奏曲を演奏したことまでは判っていますが、四弦琵琶と同様に、その伝授を惜しんだためか伝承は絶え、今となってはどういう音楽だったのか、残念ながらはっきりいたしません。
盲僧琵琶と平家琵琶
奈良朝の頃に、四弦、五弦琵琶とは別に、やはり大陸から盲僧琵琶が伝わったといわれています。仏教伝説には釈迦が、その高弟巌窟尊者の盲目を憐れんで琵琶を与え、地神経を琵琶の伴奏によって読誦することを授けたという話がでてきます。この盲僧琵琶の系統が、筑前博多で根を下ろして筑前盲僧琵琶となり、京都で京都盲僧琵琶、薩摩で薩摩盲僧琵琶と呼ばれて、四絃の小型の琵琶をかき鳴らして伴奏とし、地神経、観音経を読誦して、土荒神の法を修めて竈払いをする等、その伝承はわずかながら現在に継承されています。
鎌倉時代に入って登場してきたのが、平家琵琶とよばれるものでした。『平家物語』という文学作品は、元来、琵琶を伴奏として語る、語り物音楽の詞章だったのです。この平家琵琶の発生については、『徒然草』の二二六段に書かれているのが権威ある説とされており、生仏という盲僧が、藤原行長という公卿の作った物語を、天台宗の仏教歌謡の曲調によって語ったのが初めといわれています。その後、盲人たちに引き継がれ、南北朝時代に至って、明石覚一という無双の名人があらわれ、時の権力者足利尊氏の庇護を受けて検校という位をもらい、平家琵琶の極盛期を迎えました。江戸時代には、晴眼の人で平家琵琶を楽しむ人がでてまいりました。そういう人たちの勉強のために、楽譜が発達しましたが、江戸時代中期に名古屋に住んだ、荻野知一検校の編集になる『平家正節』が優秀なもので、墨譜で採譜したもので、その墨譜の意味の一つ一つを教えられれば、あとは現在の人でもその真似はひととおり唱えられるようにできているのです。国語学者でいらっしゃった金田一春彦先生は、長年にわたって『平家正節』の譜本の研究をされ、平成九年には三省堂から『平曲考』という平家琵琶の研究書を出版されています。また、平家琵琶の後継者育成にも熱心で、私も弟子の一人で、平成三、四年の夏に、下田の先生の別荘で、いずれも四日間の泊まりこみで、朝から晩まで平家琵琶のご指導をいただいたこともありました。薩摩琵琶は大きな声で、元気よく歌うのに対して、ゆっくりとしたテンポで語る平家琵琶は多くの人の受ける印象といったら、何という古風な単調な音楽だろうと思われるかも知れません。正絃会の冒頭に平家琵琶の演奏もしていますので、現代人の持つ何事にも忙しい時間感覚を離れて、昔の人の気持ちになって、是非一度、お聞きいただきたいものです。
薩摩琵琶と筑前琵琶
今から約五百年前、薩摩琵琶は島津家中興の名君と呼ばれた、島津日新公忠良によって始められました。戦国時代の戦乱が収まった当時の薩摩も、戦乱の世に対する反動から、一時期、人心が荒廃していったといいます。こうした状況をいかにして立て直し、安定させるかに腐心した忠良は、何よりも青少年の精神教育の大切さを痛感し、正しい音楽文化の導入をめざしました。自ら「武蔵野」「迷悟もどき」「花の香」その他の仏教的教訓の歌詞を作る一方、盲僧淵脇寿長院という盲僧に命じて、盲僧琵琶を改良して、武家音楽としての薩摩琵琶を作り上げたといわれています。島津日新公以来、幾百年の間歌い継がれてきた薩摩琵琶は、薩摩士風に深く関わり、情操豊かな人格形成の上においてもおおいに役立ったといわれています。
筑前盲僧琵琶の家柄から出た、橘智定は明治二十年頃、薩摩琵琶の弾法を取り入れて、工夫を加えて、筑前琵琶という新しい琵琶楽を作り上げました。現在も旭会、橘会という二大流派を中心に、会員数も多く全国に普及していますが、筑前琵琶には女性の演奏家が多いのが特徴的です。本号の巻頭インタビューに、筑前琵琶の名手、上原まりさんが登場し、興味深いお話をされています。日本の琵琶はそのほかにも、錦琵琶、肥後琵琶等、その種類はさまざまですが、正倉院の四弦、五弦琵琶にみられるような、純粋な器楽曲としての雅楽琵琶以外は全て、琵琶を伴奏として、声を出す語り物芸能として受け継がれてきています。
大きな声で歌うこと
昭和四十四年、大学二年生の時に辻先生の元に入門し、薩摩琵琶を教えていただくことになった私は、学園紛争の盛んな頃でもあり、ほとんど毎日稽古に通い、長時間に及ぶ一対一の稽古が続きました。当時、「妙寿風」「門琵琶」という古曲の弾法の、唯一の伝承者であった先生は、この貴重な伝承を守り、伝えるという強い思いから、ただ琵琶を弾くだけではなくて、日本の芸道に特有の心身を鍛える修行に身を入れられました。坐禅をしたり、冬の早暁に水をかぶったり、さまざまな荒行をして、琵琶楽の絶対境とでもいうものに迫っていこうとされていました。日頃、おっしゃったことは、習慣として毎日琵琶を弾くということと、大きな声で、元気よく声を出すということだけで、節回しの良し悪し、まして早く上手になる方法等を口にされることは全くありませんでした。一つの曲をくり返し、くり返し歌って、毎月の正絃会で演奏し、また次の月も、別の曲をくり返し稽古して、次回の正絃会で演奏するという連続でした。そして、正絃会を目標として、稽古をしていくという形は、今も変わらず続いているのです。インターネットが発達し、われわれの時間単位がかなり短くなりつつある現在ですが、そういう時代だからこそ、肉声の持つ力、歌の力というようなものを、一対一で相対する人間関係の中で見出していくことが大切なのではないかと思われてなりません。「謦咳に接する」という言葉もありますが、辻先生からは、膝をつき合わせての一対一の稽古を付けていただくことができましたし、今でも正絃会では唾が飛んできそうなこじんまりとした会場で、大きな声で琵琶歌を歌い、それを喜んで聞いてくださるお客様たちと、楽しいコミュニケーションの場を持つ喜びを感じています。
日本琵琶楽大系
日本琵琶楽協会監修・解説によって昭和三十八年に制作されたLPレコード全集『日本琵琶楽大系』がこの九月に、CD復刻版として財団法人日本伝統文化振興財団から、発売されましたが、この中に、辻靖剛先生の「妙寿風」「門琵琶」、池田天舟先生の「武蔵野」の演奏も収録されています。辻先生の弾奏する琵琶の余韻の深さと、池田先生の「生々世々のたのしみも、心の中の月や花」と語る声が、鮮明な音質でよみがえったことはうれしい限りです。
正絃会(せいげんかい)という、薩摩琵琶の同好の会員が毎月、中央区築地の会館に集まり、三十畳程の広間で、琵琶をかき鳴らし、元気な声を張り上げて、薩摩琵琶の演奏を続けている会があります。毎回、十人程度が出演し、弾き語りで二、三十分、長い曲になると四、五十分つぎつぎに独演し、会の終りには、鹿児島に古くから伝わってきた「門琵琶(かどびわ)」という、器楽曲を出演者全員で合奏して締めくくることにしています。この正絃会は、大正五年に、後に鹿児島県無形文化財にも指定された名人、池田天舟先生と先生の義兄に当たる辻靖剛先生のお二人によって始められた会で、戦争中のしばらくの期間、休会したことはありましたが、戦後間もなく復活し、毎月休みなく続けられてきています。辻靖剛先生は昭和五十六年に亡くなられましたが、正絃会の創立以来、長きにわたって指導者として、会の運営、後進の育成に当たられました。何事も倦まず、怠らず、継続しつづけることが大切とおっしゃっていた、辻先生のお教え守りながら、九十年を超える歴史を積み重ね、会員一同元気よく、薩摩琵琶の演奏、稽古に励んでいるのです。現在、会員の数は、二十名程度で、大学生から八十歳を超えた古老まで、琵琶制作者、サラリーマン、教師、主婦等、さまざまな職業を持った人たちの集まりで、私もいっしょになって、池田先生、辻先生の薩摩琵琶に注いだ心をたどりながら、琵琶をかき鳴らす日々を送っています。
正倉院の楽琵琶
わが国の琵琶の種類、歴史はさまざまですが、古くは正倉院の御物の中に、二つの種類、四弦琵琶と五弦琵琶が伝わっており、今でも「正倉院展」の折などには、実際に見ることもできます。これらの琵琶は、千三百年ほど前、奈良朝の頃に大陸から伝えられたといわれており、いずれも、器楽の独奏楽器であったようです。四弦琵琶は今、宮中楽部による雅楽などで目にすることができますが、平安朝初期には遣唐使の藤原貞敏が中国から伝えた「流泉」「啄木」「楊真藻」等の独奏曲があって、平安朝末まで、蝉丸、博雅三位、藤原師長、平経政等の名人によって伝えられていました。しかし当時、これを秘曲として伝授を惜しんだからなのでしょうか、鎌倉時代以降は全く独奏の伝承は絶えてしまいました。一方、五弦琵琶は、この時代の琵琶としては、世界で唯一、正倉院に伝わる直頸五弦琵琶のみが残っています。全面に美しく装飾された螺鈿細工は、当時の工芸美術の粋を尽くしたものとして、世界の驚異とされています。近衛家旧蔵の「五絃琴譜」は、その当時使用された五弦琵琶の楽譜であることが判明しており、独奏曲を演奏したことまでは判っていますが、四弦琵琶と同様に、その伝授を惜しんだためか伝承は絶え、今となってはどういう音楽だったのか、残念ながらはっきりいたしません。
盲僧琵琶と平家琵琶
奈良朝の頃に、四弦、五弦琵琶とは別に、やはり大陸から盲僧琵琶が伝わったといわれています。仏教伝説には釈迦が、その高弟巌窟尊者の盲目を憐れんで琵琶を与え、地神経を琵琶の伴奏によって読誦することを授けたという話がでてきます。この盲僧琵琶の系統が、筑前博多で根を下ろして筑前盲僧琵琶となり、京都で京都盲僧琵琶、薩摩で薩摩盲僧琵琶と呼ばれて、四絃の小型の琵琶をかき鳴らして伴奏とし、地神経、観音経を読誦して、土荒神の法を修めて竈払いをする等、その伝承はわずかながら現在に継承されています。
鎌倉時代に入って登場してきたのが、平家琵琶とよばれるものでした。『平家物語』という文学作品は、元来、琵琶を伴奏として語る、語り物音楽の詞章だったのです。この平家琵琶の発生については、『徒然草』の二二六段に書かれているのが権威ある説とされており、生仏という盲僧が、藤原行長という公卿の作った物語を、天台宗の仏教歌謡の曲調によって語ったのが初めといわれています。その後、盲人たちに引き継がれ、南北朝時代に至って、明石覚一という無双の名人があらわれ、時の権力者足利尊氏の庇護を受けて検校という位をもらい、平家琵琶の極盛期を迎えました。江戸時代には、晴眼の人で平家琵琶を楽しむ人がでてまいりました。そういう人たちの勉強のために、楽譜が発達しましたが、江戸時代中期に名古屋に住んだ、荻野知一検校の編集になる『平家正節』が優秀なもので、墨譜で採譜したもので、その墨譜の意味の一つ一つを教えられれば、あとは現在の人でもその真似はひととおり唱えられるようにできているのです。国語学者でいらっしゃった金田一春彦先生は、長年にわたって『平家正節』の譜本の研究をされ、平成九年には三省堂から『平曲考』という平家琵琶の研究書を出版されています。また、平家琵琶の後継者育成にも熱心で、私も弟子の一人で、平成三、四年の夏に、下田の先生の別荘で、いずれも四日間の泊まりこみで、朝から晩まで平家琵琶のご指導をいただいたこともありました。薩摩琵琶は大きな声で、元気よく歌うのに対して、ゆっくりとしたテンポで語る平家琵琶は多くの人の受ける印象といったら、何という古風な単調な音楽だろうと思われるかも知れません。正絃会の冒頭に平家琵琶の演奏もしていますので、現代人の持つ何事にも忙しい時間感覚を離れて、昔の人の気持ちになって、是非一度、お聞きいただきたいものです。
薩摩琵琶と筑前琵琶
今から約五百年前、薩摩琵琶は島津家中興の名君と呼ばれた、島津日新公忠良によって始められました。戦国時代の戦乱が収まった当時の薩摩も、戦乱の世に対する反動から、一時期、人心が荒廃していったといいます。こうした状況をいかにして立て直し、安定させるかに腐心した忠良は、何よりも青少年の精神教育の大切さを痛感し、正しい音楽文化の導入をめざしました。自ら「武蔵野」「迷悟もどき」「花の香」その他の仏教的教訓の歌詞を作る一方、盲僧淵脇寿長院という盲僧に命じて、盲僧琵琶を改良して、武家音楽としての薩摩琵琶を作り上げたといわれています。島津日新公以来、幾百年の間歌い継がれてきた薩摩琵琶は、薩摩士風に深く関わり、情操豊かな人格形成の上においてもおおいに役立ったといわれています。
筑前盲僧琵琶の家柄から出た、橘智定は明治二十年頃、薩摩琵琶の弾法を取り入れて、工夫を加えて、筑前琵琶という新しい琵琶楽を作り上げました。現在も旭会、橘会という二大流派を中心に、会員数も多く全国に普及していますが、筑前琵琶には女性の演奏家が多いのが特徴的です。本号の巻頭インタビューに、筑前琵琶の名手、上原まりさんが登場し、興味深いお話をされています。日本の琵琶はそのほかにも、錦琵琶、肥後琵琶等、その種類はさまざまですが、正倉院の四弦、五弦琵琶にみられるような、純粋な器楽曲としての雅楽琵琶以外は全て、琵琶を伴奏として、声を出す語り物芸能として受け継がれてきています。
大きな声で歌うこと
昭和四十四年、大学二年生の時に辻先生の元に入門し、薩摩琵琶を教えていただくことになった私は、学園紛争の盛んな頃でもあり、ほとんど毎日稽古に通い、長時間に及ぶ一対一の稽古が続きました。当時、「妙寿風」「門琵琶」という古曲の弾法の、唯一の伝承者であった先生は、この貴重な伝承を守り、伝えるという強い思いから、ただ琵琶を弾くだけではなくて、日本の芸道に特有の心身を鍛える修行に身を入れられました。坐禅をしたり、冬の早暁に水をかぶったり、さまざまな荒行をして、琵琶楽の絶対境とでもいうものに迫っていこうとされていました。日頃、おっしゃったことは、習慣として毎日琵琶を弾くということと、大きな声で、元気よく声を出すということだけで、節回しの良し悪し、まして早く上手になる方法等を口にされることは全くありませんでした。一つの曲をくり返し、くり返し歌って、毎月の正絃会で演奏し、また次の月も、別の曲をくり返し稽古して、次回の正絃会で演奏するという連続でした。そして、正絃会を目標として、稽古をしていくという形は、今も変わらず続いているのです。インターネットが発達し、われわれの時間単位がかなり短くなりつつある現在ですが、そういう時代だからこそ、肉声の持つ力、歌の力というようなものを、一対一で相対する人間関係の中で見出していくことが大切なのではないかと思われてなりません。「謦咳に接する」という言葉もありますが、辻先生からは、膝をつき合わせての一対一の稽古を付けていただくことができましたし、今でも正絃会では唾が飛んできそうなこじんまりとした会場で、大きな声で琵琶歌を歌い、それを喜んで聞いてくださるお客様たちと、楽しいコミュニケーションの場を持つ喜びを感じています。
日本琵琶楽大系
日本琵琶楽協会監修・解説によって昭和三十八年に制作されたLPレコード全集『日本琵琶楽大系』がこの九月に、CD復刻版として財団法人日本伝統文化振興財団から、発売されましたが、この中に、辻靖剛先生の「妙寿風」「門琵琶」、池田天舟先生の「武蔵野」の演奏も収録されています。辻先生の弾奏する琵琶の余韻の深さと、池田先生の「生々世々のたのしみも、心の中の月や花」と語る声が、鮮明な音質でよみがえったことはうれしい限りです。